昭和五十七年五月二十八日 朝の御理解


信心乃心得

一、神は声もなし形も見えず疑わば限りなし、恐べし疑いを去れよ。

 昨日、午後の奉仕の時でしたが、福岡から親子でお参りした方がございました。私どんが参るけん親先生がびっくりしなさろう、と云いながら参って来た、と云うのです。
 何か困った時でないと参らない、と云う意味でしょうね、成程、お話を聞いとりますと、やっぱりびっくりするようなお届けでした。 もう長年信心をしておられましてね、どんな時でも合楽にお参りしてお願いすればおかげになる、と云う事をやっぱり信じておる訳ですね。それで此処へ来た。
 ま、云うならば、その人の運命を左右するような大きな問題でしたが、腹が決まって帰られた。
 おかげを信ずる、と云う事は神様を信じておる事ではありますけれども、今日のお教えの最後に恐るべし、とあるですね。恐るべし、恐るべし、疑わば限りがない、声もなければ姿も見えない。
 長年信心は頂いておるけれども月に一回か二回、参ってくるか来ないか位な事、だから自分達が参る時には必ずお願い事ばかりで、しかも親先生がびっくりしなさろう、と云うて参って来た、と云うんですよね。
 だからそういう信心ではね、本当の神を信ずると云う事ではないと思うのです。何処までも、どんな場合でも神様の働きとして頂ける信心、云うならば一切神愛、と云うような頂き方の出来る信心が出来て、私はこの世に光明の世界と云うものが開けてくる、と思う。 信心なければ世界は闇、恐るべし、と云うのは今の時代ではないでしょうかね。
 只、核兵器の問題なんかは本当に恐るべし、恐るべし、恐るべし、何時、どういう事になるやら人類滅亡の、と云うような大変な恐ろしい時代です。
 そういう時代に光をもたらすもの、そういう時代に力強く生きる手立て、と云うものは真の信心以外はない。
 おかげを信ずる世界から神様を信ずる世界、いわゆる信心である。 お願いをすればおかげは頂く、今日も健康で無事で、と云ったようなお願いに始まってね、そういう願いを神様が聞いて下さる。
 たまにしか参らんけれども、お願いして参ればおかげ頂く、悲しい時の神だのみ的なものが信心だ、と思うたり、云うたり致しておりますがね。
 神は声もなし、姿も見えず、疑わば限り無い。声も姿もない神様を信ずる、と云う事ね。
 神様を信じて疑わない生活、そういう生活に私共が入らせて頂く願いをもたなければなりませんが、お互いの信心はどういう事になってくるでしょうか、おかげは頂かねばならんね。一心に立つればおかげ頂く信心から、どんな場合であってもそこに神様を感じれる信心。
 昨日は此処の筑水地区の連合会の先生方の研修が旗崎教会でございました。
 此処からも先生方が六、七人参りましたでしょ。
 講師は此処に一回見えました瀬戸美善雄先生で教務所から随行の方が連いておられたけども、私はちょっと合楽教会に参って来るから、と云うて午前中、丁度私が此処を限らせて頂く時間にお参りになりましたね。
 頭が上がらん程にそれこそ涙ながらに信心の喜びをお届けなさいました。
 生神にまみえる喜び、と云う事をおっしゃいました。
 どうでしょうか皆さん。そちらへ退がって本当に涙ながしながら御祈念なさっておった、と光橋先生が云うておりましたが、まず、合楽教会にお参りさして頂きたい、と云う事をどの位心に祈願しておられたか、と云う事。
 生神にまみえる喜び、生神をめざす、生神をめざす、と云うよりも私は兎に角、生神を探し求めておられたと。
 合楽で生神様に会われた、と云う意味ぢゃなかろうと思いますけれども、此処でそういうお届けをなさいましたね。
 色々、まあ、噂の中の合楽ですけれどもね、此処に二回しかお参りはされませんでしたけれども、合楽の信心をぴしっと受け止めて帰られておられるからこそね、旗崎を通り越して此処に参拝して見える、今時、珍しい先生ですね。
 それから丁度此処を退がりましたから、応接間でお茶を差し上げ朝の食事を一緒にさせて頂いて、しばらくして旗崎の方へ此処の先生方と一緒においでられた、と思うんですけど、私に第一に尋ねられたのはね。
 先生、あなたは幾つ位から、真の信心を神様に願われましたか、と云う事ですが、さあ、私も真の信心なんて中々、只もう信ずれば良いと思って来ました。私は何か子供の時から、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん自分と云うようなものを、しっかり感じておった、と思うんです。
 親達が祖母達が申しておりました。
 この人は神様のおかげで助かっとる、この人は神様の御恩を忘れよる、と云ったような事を人にお話しする。
 この人は神様のおかげを頂かなければ、と云うそれが染み込んでますからね。私は商売をさせて頂くようになってからでもそうでした。
 神様のおかげを頂かなければ自分は立ち行かんのだ、と云う思い込みでした。かと云って決して真の信心ではなかった。おかげを頂きたい、そして大きな御用でもどんどん出来るようになりたい、と云ったような願いだけでしたからね。
 真の信心、結局おかげを頂く為にあらゆる修行も真似事ですけれどもさせて頂いた。と云うて表行時代の色んな話をさせて頂いた。 ところが私はおかげを受けなかったんです、おかげは受けたけれども、いわゆる本当のおかげにならなかったんです。
 そこでね、本当のおかげを頂こう、と発心した時が、私の本当の信心の入口ぢゃなかったでしょうかね、と云うて話した事でした。 本当のおかげを頂きたい、お参りをしてお願いをしておかげを頂く、と云うのは本当のおかげぢゃない、あらゆる修行もさせて頂いたけれども、私が願うようなおかげは受けられなかった。
 そこで、そうした表行的な信心から、本当のおかげを頂きたい、と云うところから発心したのが、私の上に起きてくる全ての事を修行として受ける、と云う、その程度ではあったけれども今から考えると、そこからが真の信心のようだったですよ、と云うて話した事でした。
 私も話しながら、そんな話は今までした事がなかったです。
 私は岸先生と親先生との対話を聞いて、真の信者に私がなろう、と十一才の時に思った事でした。
 けれども、その真の信心になる手立てと云うものは、全然教えてもらえなかったし、只、神様のおかげを頂かなければ自分は助からないのだ、立ち行かんのだ、と云う思いはずうっと持ち続けて来たけれども、何時から真の信心になられたか、さあ、何時からでしょうか分からない。それこそ私の表行時代と云うか、一生懸命先生方のお説教の講題にものぼるような時代ですね。おかげを受け、その時分の信心を、もし私が、これが真の信心であると云うとったら今日の合楽は開けてないです。
 けれども私は本当のおかげ、と云う所に気が付いたんですね。
 何十年頂いてきたこのおかげは、本当のおかげぢゃない。本当のおかげとは、本当の信心をせねばならん、と云ったような理屈っぽいものではなくて、私の上に起きてくる一切の事柄を修行として受ける、と云う受け方。本当のおかげが頂きたいばっかりにあらゆる修行もして、その修行ではおかげ受けられなかったから、成行、合楽で云われる成行を尊ぶとか御理念による、と云う一番入口ぢゃった。
 ハハア、これが真の修行であったな、真の信心であったな、と云う事になってきて、それが段々、育っていくにしたがって御理念と云う事になってきた。助かりの理念と云われるようになってきた。 だから皆さん、只、おかげを信ずる、と云う事は今も申しましたようにね、おかげ頂くんです。不思議な不思議なおかげにもなるのです。
 けどもそうではなくて、本当のおかげを頂こう、と云う、いわゆる「本当のおかげ」と云うのはね、今日、合楽で頂けてるおかげこそが本当のおかげだと思うんです。
 それを私、本当な事とめざさして頂いた。
 真の信心を限り無く、これから求めてもいこう。追求をしていこうとね。と云う事はどういう事かと云うと、天地日月の心になる事肝要、と仰せられるこの信心がなされていく時に、教祖がおっしゃるいわゆる、生神をめざす、と云う事になる。
 そういう所に焦点がおかれて、此処では生神の働き、生神のお取次を頂けて、生神の現して下さるおかげを受けているのです。そういう意味ではないだろうか。
 昨日、瀬戸美喜雄先生が生神にまみえる、と云われるのは、そんな事ではなかろうか。
 そういう働きを表しておる教会が無い、と云う事だと思うんです。総生神の働きを表しておる教会がね。
 昨日も先生方が皆帰りましてから、もう今日の先生のお話は素晴らしかった、まるっきり合楽とはおっしゃらないけれども、合楽のお話をそのままに語られた、と。私は詳しくは聞かなかったけれども云うておられますね。
 それは真の信心に真のおかげが頂きたい、と云う事から始まったんですけれどもね。過去の修行と云うものを振り切り振り捨ててね、今、合楽で云われる、心行、信行、家業の行、云うならばね、いよいよ成行を大切に尊ばしてもらう、土の心で一切を、と、御理念に基づく生き方と云うものが身に付いてくるに従って、合楽の御比礼が輝き出した。と云うのは、私の心が生神へ向かって、一歩一歩前進しておる姿である、と思うんですね。
 皆さん、おかげを受けると云うけれどもね、一つ真のおかげを頂く、合楽の皆さんがみんな真の信心をしてられるか、お互いがね、もうこれを行け、この道を行けば真の信心だ、と云う所までは一つ行かなきゃいけませんよ。
 もう本当に私共の生き方の全てが御理念に基づく生き方、そして本当のおかげを頂こうと願わなければいけません。
 今、現われてるおかげはね、おかげに違いはないけれどもね、又それと反対のおかげでないような事であっても、それは神様が本気で真の信心をしてくれよ、と云う神様の願いの現われである、神様の現われである、と悟らしてもろたら、今の難儀も大変尊い修行になりますね。
 そういう所から、おかげ、おかげを求める信者がどれだけ増えてもやっぱり恐るべし、と云う事になるのぢゃないでしょうか。
 神様は疑えば限りがない、声もなからなければね、姿も見えないけれども、これが神様のお心だ、と思われる。
 合楽で説かれる御理念で説かれる天地日月の心、と云ったような心が私共の信条になる事の為の修行ね。
 そこから本当のおかげを頂こう、と私は一心発起しなければいけないと思うですね。
                        「どうぞ」